一足先の夏休み
退屈なので長文です。で、無意味にいきなり僕の好きな抽象画のカンディンスキーでございます。
さて、まず仕事だが、家に持ち帰ったiPadProで講義ノートをnotabilityを使って2回分だけ作成した。Apple Penが大活躍だ。講義ノートの準備は僕なりにどうやって授業の内容をわかりやすく伝えられるかを熟考して理論的な理解より感覚的な理解に重点を置いてなるべく多くの実例を考えているんだけど、どうも学生に伝わらないのが大変悲しいのである。まあ仕方がないか。良い講義って話の中身より如何に伝えるかが重要で、話し方とか声の大きさとか、教育の熱意とかに依存するようである。僕は年々教育に対する熱意が薄れてきている。ついでに言えば生きることに対する情熱が薄らいできている。開高健が良く言う”緩慢なる死”を意識してからは何事にも執着心も情熱も徐々に薄れてきた。
研究面では僕は計算やシミュレーションは研究室のLinuxワークステーションだし、論文を書くのはLaTeXだからこれも研究室のMacで書くので家では何もできない。研究は全くできないが、ちょっとした勉強なら家でもできる。まあMendeleyがあるから論文はいつでもその気になれば読める。しかし論文を読む気がしないので、ある専門書の各章をnotabilityでまとめたのを再度読み返したりした。僕は記憶力が悪いので理解してもすぐに忘れてしまうので何度もこのまとめに目を通す必要がある。
こういう数日も家に籠もっていると嫌になってくるが、本をまとめて読めるのは良い。しかし残念な事に予期せぬ突然の休みなので読みたい本は手に入れることができない。こういうまとまった暇な時間があるときに読みたい本は、例えば
1.ボッカチオ著「デカメロン」
2.チョーサー著「カンタベリー物語」
3.作者不明「千夜一夜物語」
4.デュマ著「モンテ・クリスト伯」
3の千夜一夜物語以外は一応読んだけど、もう一度読みたいなと。長編小説ならプルーストの「失われた時を求めて」が筆頭に挙げられるが、余りにも長過ぎるので、僕は晩年に癌とかになって入院したら読もうと昔から決めている。1のボッカチオの「デカメロン」は14世紀にフィレンツェで流行したペストから逃げるために男女10人がある屋敷(これは現在フィレンツェ郊外にある欧州大学院大学の建物になっている)に集まって一人10話づつ話をするというもの。これが面白い話ばかりでほとんどが男女間の騙し合いの話などで不倫だの浮気だのばかりが面白おかしく語られている。2のチョーサーの「カンタベリー物語」はこのデカメロンの影響を受けたもので、カンタベリー大聖堂に巡礼行く間暇なので色んな人が色んな話をするというもの。これも高貴な話から下品な話まで幅広く実に面白い。ちなみに僕は昔、カンタベリーにあるケント大学の講師に応募して面接に呼ばれて研究発表までやって結局落とされたことがある。大聖堂の近くでフィッシュ&チップスを独り侘びしく食べたのを思い出す。3は途中まで読んだが、千夜一夜物語はもう馬鹿げた話が面白くヨーロッパに行く道中の飛行機の中で読もうかなと。4はこれはもうこれほどドキドキする復讐劇はないだろうというほどの話。いずれも文学的価値という点ではよくわからないが、とにかく読んでいて楽しい。いつでも読めるよう買っておかなくてはならないな。しかし今回の休みでは以上の本は諦めるしかないので、iPad Proにあるkindleを読んだ。横光利一の短編(「蠅」とか「春は馬車に乗って」など)とか、芥川、泉鏡花の短編の幾つか、そしてカフカの「城」など。あとまだ読んでいない長塚節の名作「土」もあるのでそろそろ読み始めようかな。
本を読むのに飽きると音楽を聴いていた。台風が去ってからもずっと雨続きで気分は落ち込んでいるのでガブリエル・フォーレのピアノ五重奏曲や、その他はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を久しぶりに聴いたりした。クラシック音楽ファンの多くはチャイコフスキー、ラフマニノフ、ドヴォルザーク、ショパン等をかなり下に見ていて音楽に深みがなく表面的で単なるメロディメーカーとして馬鹿にしている。たしかに例えばチャイコフスキーのピアノコンチェルトなんか芸術というより単なる派手派手なテクニックだけを見せている音楽で僕も聴いていてくだらないなと思う。しかしチャイコフスキーの最晩年の作品の「悲愴」は抜きん出て素晴らしい交響曲だ。彼はこの音楽を作曲してすぐに自殺した。特に終楽章はもう最高の出来栄えになっている。これはもう遺書代わりの音楽だな。全編もう思いっきり泣き叫び最後のコーダでは低音のみの嗚咽になりコントラバスのピッチカートが数度鳴って最後にはppppの弱音で死に絶えるように終わります。こんな強烈な絶望的な楽章は誰も書かなかった。僕は小学生6年生の時に初めてこの音楽をレコードで聴いて、一体何があったんだと思った。それ以来この曲は時々聴いていは打ち負かされているのである。
これを聴いて何も思わない人はもうその人には音楽や芸術は必要ないのではないかな、などと吉田秀和のような事をつい言ってしまう。ちなみにこの吉田秀和っていう人は日本ではクラシック音楽の評論家の第一人者である(文化勲章もらっている)。僕が高校生の頃にCharles Rosenという学者が書いた”Classical Style"という英語の原書でモーツァルトやベートーヴェンについての章を読んでいたら、なんと吉田秀和の著作に全く同じ記述の箇所(もちろん日本語訳されている)を見つけた。数行ではなく数ページにも渡るコピーだ。発行年から見て明らかに吉田秀和がこのRosenの本をそのままパクったとしか思えないので、僕は日本の出版社に電話で伝えた。すると英語のままではなくて日本語訳になっているから剽窃や盗用にはあたらないとのことだった(アメリカでは例え日本語でもそのまま訳せば参考文献に載せないと盗用になり訴えられる)。高校生ごときが吉田大先生にいちゃもんつけるとはという態度だった。いかにも吉田秀和がコンサートで経験したような書き方だったので僕はもう日本の権威とか信じられなくなった。ちなみに吉田秀和独特だと思われていた評論スタイルが実はRosen氏ののスタイルそのままであった。
さて話は戻って音楽の次は YouTubeで能楽を観た。僕が沖縄で住んで残念な事は、クラシック音楽もそうだが、日本の伝統芸能に接するチャンスがほとんどないということだ(しかし沖縄という独特の文化圏なのだから仕方がない)。能楽や浄瑠璃のことである。歌舞伎は時々沖縄でもやっているいたいだが僕は好きじゃない。あれは余りにも大衆的過ぎて顔に大げさな化粧を施し大げさな表情をしサーカスみたいに妙な小技を使って宙返りしたり空中に浮いたりと、中身の薄っぺらい単なる低俗な見世物にしかすぎないと思う。役者も海老蔵を始めミーハーなおばさんがきゃあきゃあ言ってどこが芸術なんだと思う。それに比べて能楽の世阿弥による高度に磨き上げられた世界はなんと格調高く高尚でありましょうか。歌舞伎と違って派手な演出は全く無く、極端なミニマリズムである。能は怨念だとか憎しみだのそういう様々な情念をゆったりと独特の空気感とリズムと共に正に幽玄なる世界を繰り広げている。能舞台は装置も何もなく「無の空間」の中で極めて自由で古典的だが同時に前衛的でもあり、主題は形而上学的であり象徴的でもある。僕が能楽が好きになったのは三島由紀夫や夢野久作といった人達による案内がきっかけだ。僕が好きな「葵上」は源氏物語に出てくる有名な話で嫉妬にかられて狂気に走る女怨霊が鬼になって、最後は退治され成仏するという何とも凄みがあり悲しい話だ。
もう一つ僕の好きな「二人静」。これも義経の女であった静ちゃんが頼朝に捕らえられて死んでしまい怨霊になってある女に取り憑いてしまうというエクソシストのような話。まあ、悲しい話ではあるんだけど。
女って心底惚れた男に対してもうそれはそれは恐ろしい怨念さえ抱くんだね。ストーカーどころじゃないよ。怨霊になって、たまに生霊になって乗り移ったりする。僕は今まで女性から心底惚れられた経験がない。一時的に好かれたことは何度かありますが、一瞬の気の迷いだったのでしょう。一度くらいは本気に惚れられたかったな。もう遅いか、年だし、
僕は日本の能楽はソポクレスやエウリピデス、アリストファネスなどのギリシャ悲喜劇やシェイクスピア、そしてモーツァルトやワーグナー、リヒャルト・シュトラウス、ベルグなどのオペラなどにけっして負けていない舞台芸術だと思う。ニッポンニッポンとサッカーで日本を応援するのも良いがもう少し日本について知るのも良いと思う。
by puripurihenjin
| 2018-07-04 12:18
| 音楽